第九十五号 過去の持つ意味
迷走した台風10号も過ぎて行き、もうすぐ、待ちわびた秋の訪れでしょうか。
さて、第九十四号の中で、禅の心である『花無心』と言う良寛の詩を紹介させてもらいました。その詩には、「人間の小さな計らいなど、どうにもならない。大自然の仕組みの中で、私もあなたも、人間は生かされている。一人ひとりのつまらない思惑などどうでもよい。」と、良寛は言っているのでした。
プロ野球放送を聞いていると、ピッチングやバッティングが思うようにいかない選手に掛ける言葉は「肩の力を抜け」と言うものです。
つまり、力み過ぎると、上手くいかないということです。これは、スポーツ界だけではなく、総てのことに言えるのではないでしょうか。
それが、自然の摂理(天地の道理)のような気がします。ただ、力を抜くことは、意外に難しいのです。ここで言うところの、力を抜くとは、手を抜くのとは違いますのでご了承くださいませ…。
初めの詩は、見えなくなってから、同情される機会が増えました。
ただ、なぜか同情されることは、時には気持ちの悪いものなのです。そんなことを想いながら作った詩です。
どうぞ読んでください。

〈おもいやりとは〉

本当のおもいやりとはなんだろう
同情とおもいやり
共感とおもいやり
それは似ているが
ちょっとだけ違うもの
・・・・
初夏のある日
歳を重ねた上品な女性は
目を失くした私に言った
「小さな私の庭に
バラが咲いたのよ
見せてあげられないのが残念ね」と
しかし私は思う
バラが咲いたと
知らせてもらったことは
嬉しいと
それは 私の
目の代わりをしてくれていることになるのだから…
ある冬の午後
知人は言った
「今日は綺麗に富士山が見えますよ」と
ある秋の晩
移動支援のヘルパーさんは言った
「今晩は大きな満月が出ていますね」と
ある新月の夜
妻は言った
「空に星が溢れているわよ」と
みんなで私の目の代わりをして
私の知りたい情報を
与えてくれる
これこそが
本当のおもいやりだと想う
・・・・
人は思わせぶりに
こう言う
「目が見えなくなるなんて
気の毒ね」と
同情とひとことで言うが
気持ちの良い同情と
気持ちの悪い同情がある
そんな時には
こう答える
「目が見えなくても
痛いわけでも
痒いわけでもありませんから」と

▽ この詩に、あえて続きを書くとしたなら、『私は平気の平左です』としたいです。
さて、私自身も、目に障害を持つまでは、障害者のことを考えたことはありませんでした。
しかし、思い切って、見る角度や方向を変えることで、見える者はずいぶんと変わるものだということを知りました。同情すること…されることもその一つです。

※ 尚、平気の平左(いざ)とは、「平気の平左衛門(へいざえもん)」の略だそうです。
次の詩は、歳を重ねることで、気付いた自身の生き方を回想して作った詩です。
どうぞ読んでください。

〈私〉

今日の私は
昨日までの蓄積
どんな人生を
歩んできたのか
重ねた逡巡が
心を作り
心は顔に現れる
目に障害を持った私
若いころから重ねた
不摂生
やめようとしても
やめられない
悪い習い性
今からどう生きようかと
真剣に考える

▽ 『過去は変えられないが、現在を変えることで、過去の持つ意味は変わる』…と書いた本がありました。私は、
目を失くした自分と、どう向き合うかということを通して、その言葉を体験しています。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
石田眞人でした