第六十五号 悲喜交々
光陰矢の如しと言いますが、今年も5月になりました。
井上陽水の作品に『5月の別れ』と言う曲があります。この曲の冒頭に♪風の言葉に諭されながら、別れ行く二人は5月を歩く♪と言う歌詞がありますが、謙虚な姿勢で自然界に向き合うと、風や森などからも教えられるのですね。
確か、コリアン先生(遠藤周作)のエッセイ集?だったと思いますが、『子供たちからも教えられることが多い』と書いてあったことを思いだします。
話は変わりますが、私は、時々自分の言動に嫌気がさし、重い屈託に心を押しつぶされそうになるのです。稀には自分に嫌悪感さえ持ってしまいます。皆さんにはそんな経験はありませんか。
目線を変えれば、それだからこそ人間らしいと言えないこともありませんが…コリアン先生の言葉を借りると「無駄が人生を作る」と言うことです。
しかし、自らの言動の過ちは過ちとして、確りと原因を突き詰めて反省することで、自分自身の成長につながるのではないでしょうか。
始めの詩は、国リハ(国立障害者リハビリテーションセンター)時代に、実際に起った嫌な出来事を書いたものです。どうぞ読んでください。

※ 悲喜交々(ひきこもごも):悲しみと喜びを、代わる代わる味わうこと。また、悲しみと喜びが入り交じっていること。
▽ 一般に「交交(こもごも)」は現在ではひらがなで表記することが多い。
[補説]一人の人間が喜びと悲しみを味わうことであり、「悲喜交々の当落発表」のように「喜ぶ人と悲しむ人が入り乱れる」の意で使うのは誤り。

〈無駄の多い人生〉

失明して
悩みぬいた歳月
人を愛せなくなり
友でさえ信じられなくなった数年間
ゴロゴロと寝転んで
本を読みふけった光の陰
海に釣り糸を垂れ
ボウッと過ごしてしまった時間
・・・・
遠藤周作先生は
『無駄が人生を作る』
『生活のマイナスは人生のプラスになり得る』と
著作の中で言っている
そんな言葉に
時間の無駄遣い名人な
私の心は
どれほど慰められたことだろう
・・・・
リハで学び始めて
一年と半年が過ぎた頃
私に対する
流言飛語が飛び交った
「あいつあんま研究会の部長という立場を利用して彼女にセクハラしてるのだぜ」と
私は腹立たしさを超えて
口惜しさと悲しさで胸がつぶれそうになった
そうして玉響な時間は過ぎ去った
・・・・
虚しい風が私を襲い
全身はずっしりと重さを増した
親しんだ友からの仕打ちに
何も考えられなくなってしまった
こんな時間の流れも
いつの日にか人生のプラスに変えて行こう
悪意が地球を救う…
なんてことは絶対にないのだから

▽ 悪意を含んだ嘘は、手が付けられませんね。私が否定すればするほど、広まってしまいます。
セクハラを受けたと言われている、女性本人にその話をすると「セクハラなんて受けた覚えはありません」と、はっきり言っていたのでした。
次の詩は気分を変えて、ヘルパーさんや友達が話してくれた、初夏の風景を想像して書いてみたものです。どうぞ読んでください。

〈青い空〉

『リュックを背に足どり軽く夏探訪』
・・・・
目の見えない私は
いつでもどこへでも翔けて行ける
丸い地球を覆い尽くす
青く澄んだ空
白く柔らかな真綿雲
五月の風の流れる風景や
野の花からこぼれだす香りを
心にひとり占めし
身体はいつの間にか
空高く吸い込まれ
どこまでもどこへでも
光る青さを泳いで行ける
・・・・
新緑の風を切って飛ぶ
ハングライダー
幸せを届けてくれる
燦燦と輝く太陽
めじろの囀る五月の森や
雉の鳴く河川敷を
心に描いて歩いていると
あっちでもこっちでも
花が咲き乱れ
心も体も軽やかに
どこまでもどこへでも
この道を真っ直ぐに行ける気がする

▽ 目が見えないが故の心象風景でした。
少しだけ付け加えて書くと、青空は、人の心を映し出すような気がします。
例えば、嬉しい時には青さが喜びを倍増してくれ、いやなことや悲しいことがあると、同じ青さが、涙を誘うこともあります。まるで澄んだ青空は、心を映す鏡のようです。
私は五感の一つ、視覚を失って感じるのは、心の中の世界が広がったことです。
その心の世界を、縦横無尽に翔け巡ることができるのは、意外に楽しいことです。
今年も早五月になり、埼玉県北部では、薔薇の香りがあちこちでしています。
見えなくなってから、季節の移ろいが、見えている頃よりも楽しみになりました。
今回も最後までお付き合いくださりありがとうございました。
石田眞人でした