第五十号 自由と責任
あれは確か、私がまだ20代初めの頃のことだと記憶しています。
勤めていた職場でのことです。レクレーションで、参加者全員が笑顔になるゲームをしました。そのゲームのルールは至って単純で、ひとりずつ順番にお互いの好いところを褒め合うというものです。
それは、7~8名のグループに分かれ、円を作り、始めの人からグループ全員が一言ずつ褒め合うゲームでした。
私を含め、普段から人を褒めることの少ない人たちばかりだったので、最初はぎこちないものでしたが、徐々に盛り上がり、みんなで大笑いになりました。
次のことは、私の拙い経験値ですが、自由とは、お互いを認め合うことから始まるのではないかと思うのです。私もそうですが、自由と自分勝手を混同してしまいやすいですね。そこをしっかり見極めて、思いやる気持ちを持ちたいと感じます。簡単に言うと「自由を謳歌したければ責任が伴う」ことを常に意識したいと思うのです。
始めの詩は、自分自身との戦いを書いてみました。弱い自分・醜い自分を書いたものです。これは私の心の弱さのほんの一部です。
どうぞ読んでください。

〈雨にも負けて〉

雨にも負けて
風にも負けて
雪にも夏の暑さにも負ける
そんな弱い心を持つ
情けない私
賢治が望んだ如く
強い心と身体を持つには
どうしたら良いのだろうか
・・・・
己の過ちは糊塗し
責任は転嫁し
困っている人は無視し
見て見ないふりをする
自己を猛烈に嫌悪し
存在を消したいと思う私
そんな負のサイクルから
抜け出すためにはどうしたら良いのだろうか
・・・・
毎日毎晩
考え考えた
ある日ある時
心に閃光が走り
閃いた
弱い心
醜い心と
戦うしかないと
・・・・
雨にも風にも
雪にも夏の暑さにも
挫けず負けず
己の心の醜さに
戦いを挑み
完全に勝利する為の
努力を始めた
それからは一進一退の日々は続く
・・・・
あれから数十年
穏やかな心を求めて
今でも戦いは継続中
美しい心
醜い心
いつ終わるかわからない
そんな静かなる戦いは
おそらく永久(とこしえ)に続くことだろう

▽ あれは確か、20年近く前のことだったと記憶しています。人生の底なし沼にはまってしまい、身動きが取れなくなってしまった時期に『ありがとうは魔法の言葉』という内容の本を読みました。
それ以来、口癖だった「すみません」という便利な言葉ですべてを済ませていたことを反省し、感謝の言葉は「ありがとう」、謝罪の言葉は「ごめんなさい…失礼しました」など、曖昧な言葉を使わないことに決めました。
このことから想うのは、人生をより良く生き抜く上で大切なことは、極々小さな反省の繰り返しではないかと感じるのです。まさに『(小さなことの)継続は力なり』ですね。
次の詩は、移り行く季節を全身で感じ、心に鬱積した総ての拘りを一掃しようと思い、書いてみたものです。
どうぞ読んでください。

〈秋雨前線〉

秋彼岸も過ぎ
窓から差し込む陽光が
長くなったのと反比例して
昼の明るさが
まるで急な坂道を駆け下りるような勢いで
短くなってきた
秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものだ
・・・・
今日は久しぶりに太陽が出た
夏バテして顔を出さなかった太陽も
またぞろ夏に戻ったように元気な太陽だ
視力に障害を持つ私にも
感じられるほど強い陽光が肌を包んでいる
ベランダの洗濯物も
軽やかに肩を揺らしてダンスダンス
・・・・
秋彼岸も過ぎ
窓から差し込む陽光が
長くなったのと反比例して
昼の明るさが
まるで急な坂道を駆け下りるような勢いで
短くなってきた
秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものだ

▽ その昔、画家であり、千葉大名誉教授でもあった方とお話しさせていただく機会がありました。
その先生は、若い頃には一年に一度、山にこもり季節の移ろいを描いていた、と言っていました。
私は先生に聞きました。「先生は、海と山ではどちらが好きですか」と、です。
すると先生は間髪入れずに「山が好きだ」と言いました。その理由は「季節がはっきりしているから」と言う事でした。
案外私たち日本人は、日本の良いところに気付きにくいものですが、四季がはっきりしていることも、日本の良いところではないでしょうか。
いつかは、道元禅師のように『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて涼しからんや』…こんな短歌を詠めるような心境に成れたなら嬉しいのですが…
今回もお付き合いくださりありがとうございました。
石田眞人でした