私はその昔、苦しさのあまりに死を考えたことがありました。死を考え出すと、心が次第に追い詰められ、勝手に「前門の虎、後門の狼」状態に自分で自身を追い詰めてしまったのでした。
しかし、禍福は糾える縄の如しと言いますが、まさに死ぬことをあれこれと考え、悩んだ末には、福があることも知りました。それからは、死を考えることで、生きることへ目が向き、もう少し努力をしてみようと、気持ちが徐々に変わり始めたのでした。再度生きる決意をすると、過去を反省し、これからの生き方まで考えるようになったのでした。それはまるで、「捨てる神あれば、拾う神在」だったと思います。
話は変わりますが、皆さんは、水谷豊さん主演の『相棒』と言うドラマをご存じでしょうか。そのドラマの中で、水谷豊さん演じる杉下右京警部は、時々こんなことを言っています。「科学で解明できないことを非科学的だと決めつけることほど、非科学的なことはない。なぜなら、科学で解明できないことは山ほどあるのですから」と、です。
確かに、現在の医学技術ひとつを取り上げてみても、原因のわからない病気は沢山あるようです。
国リハ(コクリハ:国立障害者リハビリテーションセンター)の病理学では、原因がわからない病気の方が多いと教わりました。腰痛にしても、めまいにしても、そのほとんどの原因は不明なのです。
話を戻しますが、その台詞は、相棒が幽霊と遭遇した時に言うのでした。杉下右京警部は、幽霊を見たくてうずうずしているにもかかわらず、幽霊と出会えないので嫉妬心に駆られているのでした。
もしも幽霊が存在すると仮定してみると、幽霊とは、人の魂の現れでしょうか?それとも、故人の強い想念の現れでしょうか?そもそも、魂はあるのでしょうか?人は亡くなった後にはどうなってしまうのでしょう?考えたことはありませんか。そのことは私の、遠い昔の子供のころから継続して消えない屈託です。
私の知人、正確に言うと、岩手に住んでいる当時妻の通っていた美容院の先生が経験した話ですが、その先生がまだ50代の頃、大病をして、生死の境をさ迷った経験をしたそうです。それは次のような話でした。
『ふと気づくと、赤白黄色様々な花の咲き乱れる丘にいました。そこを抜けると、大きな川が流れていました。その川向うには、亡くなったはずの家族や友人たちが、おいでおいでをしていたのでした。そこで先生が、向こう岸へ渡ろうかと思っていると、背後から「帰ってこい、帰ってこい」という声が聞こえてきたそうです。そして、振り向くと、目が覚めたのでした』
その後は、元気になり、あれから15年以上たった今でも美容院を続けていると聞いています。
よくある話なので、眉唾だと思った方もいらっしゃることでしょう。私もそう思った一人です。
しかし、その先生はまじめで、嘘をつくような方ではないと、妻は言っていました。
それと相反する話になりますが、まだ新宿に都庁を移転するずっと以前に、マルクス経済学者で社会党推薦の元都知事の美濃部さんはこう言い残して亡くなって行ったそうです。
「私の死後は葬儀をやる必要はない。死んだら何も残らないのだから」とです。
この元都知事の考えに同意する方も大勢いらっしゃることでしょう。
最後に、私が国リハで学んでいる頃、生理学の先生に教わった話を聞いてください。
それは、キリスト教が盛んな国の話だそうです(たぶんヨーロッパあるいはアメリカ大陸にある国だと思います)。ある総合病院の医師団が行った実験です。その医師のチームは「亡くなる直前の体重と、亡くなった直後の体重を計測する実験を行ったのでした。
すると、すべての患者の共通点は、ほぼ1グラム体重が減少していたことでした。その医師のチームは、結論として、この1グラムの重さは、魂が抜けることによる変化に違いないと…つまり、魂は存在するのだと結論付けたのでした。」
この話は、宗教上の思想も考慮に入れる必要がありますが、この話を、あくまで客観的に信じると、この1gの重さは何の重さなのかと考えた次第です!?皆さんはどう想われますか。
初めの詩は、そんな私の『死んだらどうなるのかという』迷いを書いてみました。
死を考えることで、生き方にも関心を向けてみてください。
それでは、無駄なことを考えるものだと、御笑覧ください。
〈死んだらどうなるの〉
人間・・・・
男でも女でも
transgenderな人でも
どんな生き方をしても
使いきれないほどお金を持っていても
生きとし生けるものは
当然いつかはみんな死ぬ
目に障害を持ってしまった私でも
例外ではない
・・・・
死んだらどうなるのだろう?
意味もなく
しかし切実に
思考を巡らせた
死ぬということの意味は
何もかも無くなってしまうことなのか?
もしもそうなら
今日までの頑張りは何なのか
こんなにつまらないことはない
・・・・
もしかしたら
思い出だけは残るのだろうか
そうして そうして
その思い出の中で
心は生き続けるのだろうか
どんな本を読んだなら
誰に聞いたなら
教えてもらえるのだろう
▽ いかがでしたか?私は、死が近づくにつれ、死んだ後のことを考える時間が増えてきました。それは、後に残った家族や友のことも含め、私がどうなるのかということも少し考えたりします。それを考えても無駄だとわかっていてもです。
話は全く変わりますが、心まで冷える冬には、温かな飲み物が欲しくなりますね。
皆さんは、コーヒー派ですか?紅茶派ですか?それとも日本茶が好きですか?私の家では専ら(もっぱら)コーヒーです。
次の詩は、そんなコーヒーに目や鼻を向けて作ってみました。どうぞ読んでください。
〈温かな珈琲〉
点てたばかりの熱い珈琲が
たっぷり注がれた大きなマグカップを
冷えた両手で包み込む
すると珈琲の温もりが
両掌を伝わり
心までが暖かになり
珈琲を点てた人の
優しさが全身を温めてくれる
そんな温もりに
ほっとして
大きく胸を広げて息をつく
オフフォアイト色したマグカップに
並々注いだ熱めの珈琲を
ゆっくりと口もとへ運び
ゆらゆらのぼる湯気を吸い込むと
一刹那香ばしい薫りに
鼻の奥は擽られる
そんなひと時が至高の時
・・・・
ちょっとだけ熱めの珈琲を
そっとすすりながら
口に含み
咽へ流す
すると
舌に苦みが広がり
口中はふくよかな薫りで満たされ
その次には
徐々に苦味は広がり
やがて胃の腑へ落ちて行く
・・・・
ひと口目の珈琲が
お腹周辺を温めるころ
ふた口目の珈琲を
口へ含む
その刹那
口いっぱいに苦みが襲い
玉響遅れて
香りも鼻を抜けて行く
それはほんの小さな幸福な時
まだ温かさが
たっぷり残っている珈琲を
楽しみながら
ゆっくりと飲み干して
空になったカップに残る
温もりを
想いきり胸に吸い込むと
上気道が刺激され
そこはかとなく広がる
甘く香ばしい薫りに
心は和み
ひねもす気持ちは豊かになる
・・・・
珈琲とは
不思議な液体
それ自体は苦いのに
香りには甘さを含んでいる
たぶんきっと
魔法使いが作ったのだろう
※上気道(じょうきどう):気道(息の通る道)の上半分。気道には上気道と下気道があり、上気道は、鼻とのど(咽頭:いんとうと喉頭:こうとう)、下気道は、喉頭よりも肺に近い気管、気管支、細気管支、肺を言います。
▽ コーヒーを飲みほした後の、カップを鼻へ近づけて、思い切り香りを嗅いだ経験はありませんか。私は、忘れずに必ず行います。それをやったことのない方は、一度やってみてください。お行儀の悪さを忘れてです…
心がとろけるほど甘い香りがします。その甘い香りと、ほろ苦いコーヒーの香りが相まって…幸せの香りに化学変化するのです。
ちなみに、東洋医学では『青色の食品は肝臓・赤色の食品は心臓・黄色の食品は消化器系・白色の食品は肺臓・黒色の食品は腎臓』を元気にすると考えられています。
また、体調を診る時には『顔色が青いときには肝臓・赤いときには心臓・黄色いときには消化器系・白いときには肺臓・黒いときには腎臓』に原因があり体調を崩していると診断します。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
石田眞人でした