第十七号 行雲流水を旨として
今年も葉桜の季節になりました。そんな間断なく流れ行く時を想起し、ふと過ぎ去って行った歳月を思いました。移ろい行く季節…それは、万人そして森羅万象に平等に与えられた時間です。
以前『習慣が、人間を作る』と書いた本を読みました。私は今年62回目の春を過ごし、62回目の夏を迎えようとしています。よく人生をマラソンに例えますが、私もそして皆さんも同じコースを走っている最中です。そのコースは平坦な道のりではなく、山あり谷あり苦あり楽ありです。そんなコースは誰にも平等なのです。しかし、その道を走っている人たちは、スピードも走り方も違い、纏っている衣装すら違うのです。
そんなことを想うと、同じ季節を生き、同じ速度で過行く時間を生きていても、その使い方次第で、人生も大きく違ってしまうことを想います。それは正に、習慣が今の私を作り出したのです。
つい先日『ビリギャル』と言う映画をPCで見ました。
視覚障害者向けの映画は、ボランティアの方が解説を付けてくれているので、見えなくてもストーリーを理解できます。
ひとことでその映画を紹介すると「小学四年生程度しか学力を持っていない女子高生がある時奮起し、慶応大学を目指し、一年半くらいで合格してしまうという実話です」
その女子高生は、先生からも父親からも「ダメ人間…くず人間」とさげすまれ続けていた女の子なのです。その女の子が「慶應大学を目指す」と宣言すると、クラスメートからは冷ややかな目で見られ、学校の先生からも、父親からも「無駄なことはやめなさい!」と叱責されていました。そんな女の子が寝る間を惜しみ、母親から守られ、塾の講師からは褒められ励まされながら成長していく姿には、涙が流れました。そして、努力の大切さを教わりました。久しぶりにユーモアあり、感動ありの良い映画を見せてもらいました。
話は全く変わりますが、先日、布団に寝転びながら考えたことがありました。
『白杖の歴史はどうだったかな?白杖は世界的に通用するのだったかな?』と…確か、白杖についての内容は、塩原センターの「教養」の時間に教わったはずでした。それで、改めてPCで調べてみました。以下の内容は、調べてみた結果です。

《白杖(はくじょう)の歴史》
▽第一次大戦中(1914-18)「白い杖を視覚障害者用」にフランスのジャン・ドラージュが考案する。フランスに「白いつえ」協会を設立。
▽その後、 イギリス→カナダ→アメリカへ伝わる。
▽1925年ライオンズクラブ国際大会にて、『ヘレン・ケラー女史』が「ライオンズクラブの皆さん、闇を開く十字軍の騎士になってください」と呼びかけた。…これがきっかけで、全世界のライオンズクラブの盲人福祉活動が始まり、現在に至っている。
▽1930年イリノイ州ペオリア(米国)記録に残る最初の白杖に関する法令ができる。
▽1931年:カナダのトロントにて、国際ライオンズクラブ大会が開かれて「国際的に白杖を視覚障害者の歩行補助具に」という決議がされる。
◇一方日本国内に目を移してみると、平安時代の絵画に杖を持って単独歩行している、見えない人が描かれている。江戸時代は、階級により杖の色が違っていたとの記述もある。
◇現在は、道路交通法で、全貌の安全を視認しにくい人は白杖を持つことが定められており、見える人はこの杖を持つ人に配慮することになっている。

かなり昔から、各国の視覚障害者は、その「形態」や「色」は様々だったようですが、歩行補助具として杖を使っていたようです。白杖として確立されてきたのは、20世紀に入ってからです。
以上です。

※盲人の階級について
検校(けんぎょう)は、中世・近世日本の盲官(盲人の役職)の最高位の名称。檢校あるいは建業とも書いた。
元々は、平安時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名であったが、室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着した。
江戸時代になると、国の座をまとめる総検校を最高位として京都に置き、江戸には関東の座の取り締まりをする総録検校を置いた。
検校は、専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。盲官では、位階順に『検校(けんぎょう)・別当(べっとう)・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)』などがあった。
昔『座頭市』と言う、勝新太郎さん主演の映画があったことは記憶に新しいのではないでしょうか。

次に、白杖の役割について考えてみました。
①視覚に障害を持っている旨を、周知すること。
②目の代わりを務め、危険を回避し、安全を確認すること。
③歩む方向を定め、真っすぐ歩くこと。
④身体を支えること。
四番目の役割を、考えている人は少ないと思います。私もそのひとりで、身体を支えるために使ったことはありません。
次のことはあくまでも、私個人として思うのですが、障害者の中で視覚障害者は、比較的恵まれているのではないかとです。その心は、大昔から、国などから手厚い保護をしていただいていたように感じるのです。それは、単に私の知識不足からきているのかもしれませんが…
初めの詩は、私の経験を変化させたうえに、二倍、三倍に膨らませて作ったものです。
それは、夕方五時半頃のことでした。駅近くの八百屋さんに向かって点字ブロックを白杖で確認しながら歩いていた時のことです。もう少し早い時間帯なら人通りも少ないのですが、その時間帯は帰宅を急ぐ人たちで肩摩轂撃の様相を呈していました。
そんな中、駅方向からハイヒールの音を響かせて、小走りに歩いてくる人がいました。その次の瞬間、私の白杖に負荷がかかったと思うと『ポキ』と、軽い音がしました。
それは、白杖が二つに割れた瞬間でした。割ってしまった人は、平身低頭「申し訳ありません」と何度も何度も謝ってくれました。本当に恐縮している様子が分かったので、かえって私のほうが恐縮してしまい「弁償します」と言う女性に対して「大丈夫です、それはけっこうです」と答えていました。その時私はその女性の誠実さを感じ、心から謝ってもらうだけで十分だと思ったのです。
以下の詩は、その時のことを書いたものです。ただ脚色は沢山加えました。読んで見てください。

※肩摩轂撃(けんまこくげき):人や車の往来が激しく、混雑しているさま。

〈白杖物語〉
あなたは知っていましたか
白い杖と書いて白杖(ハクジョウ)と読むことを
あなたは知っていましたか
白杖の役割を
あなたは見たことがありますか
白杖を持って歩いている人を
あなたは会ったことがありますか
白杖を持った
タンポポのように愛らしく
健気な女の子と
これはそんな女の子の物語です
・・・・
ある夏の日の午後
ひとりの少女は街に出た
背中に小さなリュックを背負い
右手に白杖を握りしめ
胸には恐怖を仕舞い込み
心を勇気で励まして
涼風に背を押され
ひらひらスカートなびかせて
小さな街での小さな一人旅
青く純んだ空
森から流れる大地の薫り
水色をした柔らかな風が
白く膨らんだ頬にキッスをすれば
少女に咲いた桃の花
白杖に全身の神経を集中させて
街中の喧噪さえもろともせずに
目指すは駅ビル内のお花屋さん
森ではチューチュー小鳥たち
通いなれたコンビニも
またこんどねと過ぎ去って
次の角を左に折れて
スクランブルをするする渡り
もうすぐ目指すお花屋さん
聞えてきたのは八百屋さんの声
ここまでくれば
ほっと一安心
・・・・
ぼきっと 突然変な音
「あっ!ごめんなさい」と
お姉さんの声
気付けば白杖まっぷたつ
「どうしよどうしよ」
慌てふためくお姉さん
それからみんなが寄ってくる
「ごめんねごめんね」と
恐縮するお姉さん
その後はおじさんからもらった割り箸で
添え木して応急手当
「ひとりで大丈夫?どこまで行くの?」
家まで送るとお姉さん
少女はなんだか嬉しくて
にこにこ笑顔になりました
・・・・
白杖が
思いも寄らず
縁結びの神になり
ふたりはそれからいつでも一緒
今日もお手手つないでお花屋さんへ
そんな ある日の白杖物語

▽皆さんも読んで気付いたと思いますが、女の子が私です。この詩の骨格だけは事実で、登場人物などの肉付けの部分は私の妄想でした。
この時は、いつも使っている白杖を一本しかもっていなかったために、修理を依頼してそれが戻ってくるまでの数日は、白杖なしで困りました。その時の経験から、いつも家に予備を一本持つことにしたのでした。
次の詩は、私が、国リハでもがき苦しんでいる頃の記憶をもとに作ったものです。
もがいてももがいても、心は苦しみから解放されず、どうにかして、心の平安を得たいと思っていました。そのきっかけになった言葉が『行雲流水』でした。それからは、川の流れのように、また雲が風に流されて行くように自然のままに生きて行こうと、思う努力を始めたのでした。
どうぞ読んでみてください。

〈行く雲 流れる水が如く〉

生への執着を捨て
老いを楽しみ
病むことを気にせず
死を恐れぬ人生を行く
・・・・
愛する人と 別離が訪れても
憎み嫌う人と顔を合わせても
求めるものを得ることができなくても
ありとあらゆる苦しみに襲われても
頓着せずに生きる
そんな者になるためには
どう生きれば良いのだろう
・・・・
私は考える
そうして 今日も生きている
また明日からも生きて行こう
結論の出ぬままに
蒼穹を噴く風に
心を任せて

▽皆さんの人生を一冊の本にまとめると、膨大な内容になることでしょう。
私は訪問マッサージをしながら、母親世代の人達からここまで歩んできた苦労話を聞くことが大好きです。それはそれは、様々なご苦労をされています。それを聞くたびに、私の苦労などまだまだ甘いと思うのです。しかし私も、これ以上の苦労は勘弁してほしいと言うのが本音です。
苦労は買ってまでしたくはありません!皆さんはいかがでしょうか?
今回もありがとうございました。
石田眞人でした