第十三号 人生は苦尽甘来
視覚障害者支援センター熊谷(通称:全国ベーチェット協会)のホームページに私の詩を掲載していただくようになってから、はや半年が過ぎました。今回で私の詩は二十六編になります。私の詩を発表する機会をくださった視覚障害者支援センター熊谷の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。また、今回まで私の拙い詩を読んでくださった皆様には、とても励まされてきました。これからも、ご感想をお寄せいただけたなら嬉しいです。この場をお借りして、視覚障害者支援センター熊谷の皆様と、私の詩を読んでくださる皆様に心からの感謝を申し上げます。また、引き続き、これからも掲載させていただきたいと考えています。よろしくお願いします。
ところで、芥川龍之介の童話「蜘蛛の糸」を読んだ方は大勢いらっしゃると思います。私の場合は、小学一年生の時に、紙芝居で見せてもらったのが初めてのことでした。その後、芥川龍之介の短編集を手にしたのは社会人になってからです。ほんの数ページの短い童話ですが、その童話から教えられたことは、今でも強烈に心に残っています。
それは、主人公のカンダタが、蜘蛛の糸を必死で上っている最中の行動から教えられました。カンダタがふと下を見ると、血の池地獄から、蜘蛛の糸にしがみつき沢山の亡者が這い上がってきている光景を目の当たりにします。その時カンダタは、真下まで来ている亡者を蹴落とそうと全身に力を込めて繰り返し繰り返し蹴飛ばします。そのために蜘蛛の糸は手元から切れてしまい、真っ逆さまに血の池地獄に落ちてしまうのです。
そして、元の木阿弥となり、カンダタを地獄から助け出そうとする、お釈迦様のご厚意を無にしてしまったのです。
そこから私が感じたことは、下から上ってくる亡者は気にせずに、自分のことだけに専念し一所懸命になれば、きっと蜘蛛の糸は切れず極楽までたどり着けたのではないかと言うことです。
この場面のカンダタの気持ちを想像すると「こんなに沢山の亡者がぶら下がると糸が切れてしまう」と言う恐怖心と「これは俺だけの糸だ」「俺だけが助かればいいのだ」という、自分勝手な気持ちが糸を切断してしまったのではないかということです。
突然、なぜこの場に「蜘蛛の糸」を読んだ感想を持ち出したのかと言えば、この短い童話の中に、人生を生きて行くための極意が秘められているように思えたからでした。
また、誰の書いたどんな本化は忘れてしまいましたが、そこには次のようなことが書かれていました。『人格者と言える人は、自分のことをさっさと済ませ、困っている人に助けの手を差し伸べることのできる人だ』とです。
ここで大切なことは、困っている人をほっておくことではなく、自分のやるべきことはしっかりとやってしまわなければならないということです。自分のことすらできない人は、人格者にはなれないという事ではないでしょうか?
初めの詩は、比較的新しい作品です。
そこそこの長さを過ごしてきて、ストレスは無いに越したことはありませんが、全くストレスのない生活は、自分をだめにしてしまうと感じられるようになりました。
苦しいこと、悲しいこと、辛いこともありそれらの経験が、僅かな喜びでも心を明るく弾ませてくれることを強く感じています。そうして、苦しいことや楽しいことは、交互にやってくることも知りました。そんな気持ちで作った詩です。どうぞ読んでください。

※苦尽甘来(くじんかんらい)とは:苦しいことが去って楽しいことが来ること

〈禍福は糾える縄の如し〉

長く厳しい冬は
一歩また一歩と緩やかではあるが
確実に過ぎて行く
優しく暖かな春には
盛り沢山な夢を見て
開放的で短い夏には
心ときめかせ
匂い立つ大自然と遊ぶ
首を長くして待ちに待った
絵画のごとき実りの秋には
感謝を捧げ一年を振り返り
反省する
やがては訪れ
大地を凍らせ
星の輝きが際立つ
透き通った風の吹く冬には
心身を眠らせる
そうして 喜怒哀楽で重ねた春秋は
地層のように積み上げられて行く
・・・
子供の頃から青春を過ごした日々の
そこはかとなく楽しい歳月は
想い出という名の
ひとり立ちし親元から離れた頃の
終日(ひねもす)無我夢中な日々は
希望という名の
あちらこちらに散りばめられた
辛く苦しい日々は
苦悩という名の
地層になり堆積されて
化石と化して行く
・・・
やがて来る終わりの日には
感謝を祈り
ありがとうの一言で
終焉を迎えたい
そんな瞬間を
夢に見て
逞しくも慎ましやかに
歩を進めて行く
ゆっくりと
ゆっくりと
ゆっくりと

※そこはかとなく:なんとなく

▽皆さんも、人生の歩みを振り返れば七重八重と、幾重にも重なりあった想い出や苦難の日々がその中には圧縮されていることでしょう。
以前読んだ、倉田百三さんの「出家とその弟子」の本の中に、親鸞の言葉として「善悪を超える存在は愛とゆるししかない」と、書いてありました。
ゲーテの名言集の中には「正義感が戦争を生む」とも書いてありました。そんなことを考慮に入れて、熟慮してみると、それまでの私自身の考えの浅はかさが、思われてなりません。
それまでは、正義感は一番尊くて必要なものと考えてきました。それは決して不必要ではないものの、それ以上に尊いものがあったことに気づかされました。「愛とゆるし」考えてみれば、これほど大切なものもないように思えます。皆さんはどう思いますか?
話は変わりますが『井の中の蛙(かわず)』という諺がありますが、今はあまり聞かなくなりました。その大昔、まだ言葉も理解できず、歩くことすらできない赤ちゃんの頃には、お母さんの胸の中が全世界でした。そうして歩くことを覚えると家の中が全世界になり、やがて保育園や幼稚園に通う頃になると友達もでき、家から出て、少しだけ住む世界が広がりました。その後、僅かですが経験も積み知識も増えて、大人になり世界に出てみると驚きの連続でした。考えてみると、わたしはまだ山の頂上にも上ったことはないし、深海を旅したこともなく宇宙旅行など夢のまた夢です。そう考えると、私たちの知らない世界が、まだまだ多くあることを想い、たとえ見えないことでも、たとえ医学的にあるいは科学的に解明されていないことでも、非科学的とは言えないと思えてきます。
科学技術と言えば、日本が誇る本田技研工業の創業者の本田宗一郎さんは「飛行機は飛び立つ時より着地が難しい。人生も同じだよ」と、言っています。
私は、今まで学んだ知識や経験を活かして、自分自身どんな終焉の日を迎えるのか?を考える年代になったように思えます。
次の詩は、自らの体験をちょっぴりのユーモアで書いた詩です。楽しんでください。

〈大きな思い違い〉

バブル時代を生きた あるおじいちゃんは
腰をそらし
滑稽なほどに胸を張って言った
「おらは なんでも知っているだ」
そのおじいちゃんは 確かに何でも知っていた
おじいちゃんの生まれ育った部落のことは
おじいちゃんが生まれ育ったのは
東北地方の
ある小さな小さな村の
その中では少しだけ大きめの部落だった
おじいちゃんの住んでいる世界は
お釈迦様の手のひらどころか
お釈迦様の小指の先の先くらいの狭いところで
生まれ育ち死んでいったのだった
おじいちゃんは何でも知っていた
生まれ育った小さな部落のことは
おじいちゃんは
実は何も知らなかったことには気付かずに死んでいった
・・・・
経済成長 真っただ中な昭和の時代に
北関東の
風光明媚で
穏やかな村で生まれた男の子は
小学一年生に入学してすぐに
国語のテストを受けた
その最後の問題には
『先生は何でも知っている ○か×か答えなさい』
という問題があった
男の子はにっこりと微笑んで
自信をもって ○を付けた
しかし 間違えていた
答え合わせの時に先生は言った
「先生にだって知らないことは沢山あります」と
男の子は驚いた
目を丸くして驚いた
男の子は
大人は何でも知っていると
信じていた
・・・・
男の子はやがて成長し
中学に入り高校を卒業し想った
『勉強をすればするほど 自分の知識のなさを感じる』と
そうなのだ 少年は気付いた
一つ知識が増えると
疑問が次から次へと湧いてくることに
そうして 少年は
あっと言う間に成長し
青年になり
中年になり
壮年になってからも
あのテストのことを思い出す
今は 経験値も増え
知識も徐々に多くなっていった
そのたびに感じるのは
自分の知識の足りなさと
力のなさであった
そうして 時々思う
まさか自分が障害を持つなんて
続けて思う
生きていれば何があるかわからないと
そうしてまた思う
ここまで生きてみて良かったと
なぜなら
これからもたくさんのことを学べるから

▽子供のころ私は、昭和の時代が死ぬまで続くと思い込んでいました。ところが、今年は令和三年です。私の祖父母が、明治・大正・昭和と三時代を生きたように、私も、昭和・平成・令和と三時代を生きています。この三時代を振り返ると、生活環境は驚くほど変わりました。仕事はますます分業化が進んでいます。このことは色々と議論の的になるかもしれませんが、見方によってはひとりでは生きられない時代になったともいえると思います。もう少しだけ角度を変えて言えば、協力し合い、助け合う時代ともいえます。
ひとりの人が一生涯かけて、得られる知識や技術は限られます。そこで、一つのことに特化して、研究し専門技術を身に着けることで、友や社会にその技術を還元できるのではないでしょうか。少し広げて考えると、国、あるいは世界中の人達に、喜んでいただけるのではないかと思います。
私も、鍼灸マッサージと言う技術を通し、身近な人のお役に立てたなら幸せです。
ありがとうございました。
石田眞人でした。