第十号 臥薪嘗胆する
毎年、新年を迎えるたびに時間は平等に与えられていることをしみじみ想います。その時間をどう使ってきたのかと、見つめ直し思い返してみたりもします。
去年読んだ野口卓さんの小説の中で、主人公の手習い所の先生はこんなことを言っていました。人差し指と中指をV字に立てて「出発点は同じでも、与えられた時間をどう使うかで、徐々に差がついてきます。初めのうちはあまり差はありませんが、長い間努力を続けてきた人とただ遊んで暮らしてきた人では、気が付くと取り返しのつかないほどの差が生まれてきます。」と、こんな内容の話でした。
私は、これを読んでチクリと心が痛みました。
ところで、 令和二年は新型コロナ問題で足早に過ぎて行きましたが、皆さんは令和三年をどんな気持ちで迎えたのでしょうか。私は、ただただ『平穏に過ごしたい』と願いながら新年を迎えました。それで、元日はおとなしく家で過ごし、二日からはいつものように移動支援をお願いして荒川の土手を歩きました。その時に、伴走・・・と言うか伴歩をしてくれている方が「川向うの土手で凧が揚がっています」と教えてくれました。
そこで、新年早々ですが、一句ひねってみました。
「凧揚げや 糸引く父に子はスマホ」…大変失礼しました。
突然話は変わりますが、武田信玄は『風林火山』上杉謙信は『天地人』という旗印を掲げて、戦に臨んだ話は有名です。上杉謙信は、旗印の通り、天の時を見極め・地の利・人の和を重要視し戦い、全戦負け無しだったと聞いています。
現在の世の中でも、天の時・地の利・人の和は大切なのではないかと思います。つまり『その時に与えられたチャンスを、人の力を借りながら(または力を合わせて)、努力して掴み取る』そんな意味だと、私は考えたのです。
私は、見えなくなってから一つのチャンスをもらい、鍼師、灸師、あんまマッサージ指圧師の国家資格に合格しました。これは、祖先と神様にもらったチャンスをちょっぴり頑張って勝ち取ったものだと、私はひそやかに胸を張り、自分をほめてやりました。
もちろん、国リハの先生方や職員の皆さん、クラスメートのみなさん等々には言い尽くせないほどの感謝を感じています。
ある人が、我々障害者に向けてこんなことを言ってくれました。
「皆さんも できることが一つ増えれば、一つ自信も増えます、これからもひとつずつできることを増やしていってください」と、です。その話をしてくれた方が、全盲の方だっただけに、感動も大きかったのです。それからは、人間いくつになっても向上心を持っていたいと思うようになりました。今を生きているのですからね。
目を失くすと同時に、自信を焼失していた私でしたが、確かに、出来ることが増えるごとに自信も増したように思えます。
穿った見方をすれば、今私が歩んでいる人生は、何代も前の先祖の生きてきた積み重ねが私を生かしてくれているとも考えられるのではないでしょうか?!
そこで、最初の詩は、年の始めに私自身のご先祖様のことを、想い作った詩を載せてもらいました。私のルーツを考えてみたとき、両親がいて・祖父母がいて・その先には何代も生き繋がれてきた、先祖がいて、またその先の私の始めは、誰がいたのだろう…などと考えて作ってみた詩です。
それでは、 少しだけお付き合いください。

<へその緒〉
へその緒は
私と父母を繋ぐ絆
へその緒は
父母と祖父母を繋ぐ絆
へその緒は
祖父母と曽祖父母を繋ぐ絆
へその緒は
曽祖父母と高祖父母を繋ぐ絆
へその緒は
高祖父母と祖先を繋ぐ絆
へそのをは
私のルーツを手繰る為の絆
へその緒は
私自身を見つけるための絆
へその緒は
七転八起(シチテンハッキ)な人生を
臥薪嘗胆し
確かな足跡を
次世代に残す為の絆

※臥薪嘗胆(ガシンショウタン)とは:過去の失敗や敗北を取り返すために、将来の成を期して、苦労に耐えること。
▽先祖から何代も何代も引き継がれた、DNAを私も持っていると思うと、自然にご先祖様に手を合わせたくなります。
話は変わりますが、皆さんは、思い出にふけることはありませんか?
私は50歳を過ぎてから、未来よりも過去のほうが長くなったためなのか?目が見えなくなったためなのか?それともその両方なのか?わかりませんが、昔を思い出す機会が増えました。
思い出すのは、そのほとんどが楽しかった出来事です。もちろん僅かですが、苦しかった頃や恥ずかしい出来事なども思い出したりします。
次の詩は、そんな思い出を題材にして作りました。
◎登場人物は架空の人達です。

<一日一日は長くても 振り返れば五十年はあっと言う間だった〉

今日もゆったりとした時間が流れていく
忙しない時もあり
嫌な出来事もあり
楽しくて心奪われることもある
朝起きてから夜布団に入るまで
なんと長いことだろう
しかし 振り返れば
五十年は矢のように
猛スピードで過ぎ去って行った
・・・・
あれは確か
小学六年生最後の一日
さゆりちゃんに呼び止められて
校庭の片隅で
ぽかんと佇んでいると
さゆりちゃんの傍らで
丸い目をした文枝ちゃんが
悲しそうな顔をして
「私ね…中一からほかの中学に転校するの」
「もう 眞人君と会えなくなるね」と
目と目をしっかりと見つめあい
小声で言ったあの日のあの声は生涯忘れないでしょう
・・・・
あれは確か
小学六年生の早春
授業が終わり
校庭の掃除をしていたら
硝子の鋭くとがった破片が
僕の掌に突き刺さり
鮮血が淋漓(りんり)と
右掌を染めた時
さゆりちゃんと文枝ちゃんが走り寄ってきて
「大丈夫?」と目を丸くして
心配してくれた日の思い出が
鮮やかに蘇ります
・・・・
あれは確か
小学四年生の夏
初めて取った免許証
それは自転車で国道を走れるという
長尾小学校が発行する自転車の免許証
校庭に引かれたコースを自転車で
交通規則を守りながら
緊張と暑さで汗みどろになりながらも
走り 合格したあの夏の思いで
嬉しさのあまり
これをテーマにして書いた作文が
はなまるをもらったことは今でも私を笑顔にしてくれるのです
・・・・
あれは確か
小学二年生の五月ごろ
良夫ちゃんと幸雄ちゃんと僕の三人で
抜き足差し足忍び足で廊下を進み
女子の身体検査を覗いていると
優しくて素敵な
佐々先生から大目玉をくらい
バケツを持って廊下に立たされたこと
あの日のことは今でも可笑しくなるのです
・・・・
あれは確か
小学一年生の五月も終わる頃
授業が終わり 真新しいランドセルに
教科書ノートを入れて
帰り支度をしていると
真剣な顔をした
佐々先生が前の席に座り
神妙な声で
「幸雄ちゃんが今日で三日休んでいるでしょ」
「幸雄ちゃんね 学校でお友達ができないから学校に行きたくないって 言っているの」
「眞人君がお友達になってくれないかな」と
お願いされたこと
あの時 大好きな佐々先生に
言われたあの一言が
どんなに嬉しかったことか
昨日のことのように思い出されます
・・・・
今でも心に焼き付いています
あれは確か 小学に入学して間もない4月でした
その日は丸で夏近しと思われる
汗ばむ陽気の 帰宅みち
校門を出て間もない石橋
一瞬 横眼に映った小川を泳ぐ小魚
思わず橋の欄干から身を乗り出した私
その刹那 背中のランドセルがするりと頭に滑り
その重さに耐えきれず
小さな身体がふあっと浮いて
空高く風に舞い上がる如く
橋から落ちて
清らかな小川に
ランドセルからどぶんと落ちた
あの時あの瞬間の
何とも言えぬ心地よさが
今でも体に焼き付いているのです
・・・・
今日もゆったりとした時間が流れていく
忙しない時もあり
嫌な出来事もあり
楽しくて心奪われることもある
朝起きてから夜布団に入るまで
なんと長いことだろう
しかし 振り返れば
五十年は矢のような
猛スピードで走り去って行った
あっという間の出来事でした
そして 我が人生も
うかうかしているうちに
ずんずんと 走り去り
気がつけば
そこには人生のゴールが待っていた
なんてことになるのではないかと
いうように思えるのです

※淋漓(りんり):水や汗や血が滴り落ちるさま。
▽今回の投稿は、障害にはあまり関係ないものでしたが、勉強に疲れた頭を休めるために国リハの居室に寝転んで思いを巡らせたものでした。
私だけではなく、多くの方が、考えたことのある内容だったのではないでしょうか?!もちろん、私の考えとは全く違った考えを持つ人も多くいらっしゃることと思います。
そんな方たちは、「そういう考えもあるのか」とだけ思ってくだされば幸いです。
ちなみに、国リハの時に学んだことですが、人は忘れる動物なのだそうです。特に嫌なことは忘れて行き、楽しかったことが多く記憶されるようです。
今回で十回目の投稿になりますが、ここまでお付き合いくださった方たちにお礼を申し上げます。
今年もよろしくお願いします。
石田眞人でした