第七号 光陰を行く
皆さんも今までに一度は、人生について考えたことはあるのではないでしょうか。
私は思春期の頃、ぼんやりとそして漠然と人生を考えたりしました。その後、昭和、平成、令和と生き続けてみましたが、今でも人生とは不可解そのものです。そんな中で大雑把な見方をすれば、人生の主人公はあくまでも自分自身だと感じます。究極的な言い方をすれば、すべては自分のための人生だと思うのです。
自分自身のための人生ならば、有意義に日々を過ごすのも、無駄な数十年間を生きるのも、自分次第ということになりますね。それだからこそ、良し悪しは別にして、人と人、そして森羅万象との出会いは大切にしたいものです。ユーミンの『やさしさに包まれたなら』という歌に「目に映るすべてのものはメッセージ」という一節がありますが、私もその通りだと思います。例えば、同じ街に住み、同じものを見て、同じ風に吹かれても、人それぞれの経験や性格の違いから、感じるものは違うはずです。
しかし、心を研ぎ澄ませていると、そこから何かのメッセージを受け取れることは確かです。ただ、同一人物でもその時々の心の在りようで、何も感じないか多くを感じ取れるか、またどんなことを感じ取るのかは全く異なるはずです。
そんなことを考えながら住んでいる街の草花や人の営みや、そして流れてくるニュースなどに目を向けてみると、地球上には有り余るほどのメッセージがありますよね。その多くのメッセージから何かを感じ取り楽しめたなら、どんなにか幸せでしょうか。ひょっとして、ひょんなことで、山川草木・花鳥風月から、人生を教えてもらえるかもしれませんね??
初めの作品は、自然な現象を見たまま感じたままを描写し詩にしたものですが、今、自身で読み返してみると、その中に私自身の、苦しみを感じながらも喜びを求めている様子が見え隠れしています。人の世界だけではなく自然界すべては、苦しみも悲しみも喜びも混然一体ではないでしょうか。よく吟味しながら読んでいただけたなら幸いです。
〈陰と陽〉
朝の光は夕日に溶けて
光の陰は粛然と去って行く
雨夜の星に
勇気をもらい
雨夜の月に
確かな夢を見る
春風に舞い歌う 雲雀の声は
空高く 青さに同化し
息づく大地に 命を与える
七色に染まる 紫陽花は
モノクロームな 長梅雨に彩りを加え
風雅に 雨を楽しむ
夕焼けに染まる ひまわりは
笑顔で落日に 両手を振り
夏の陽光を 走り抜ける
密やかに咲く 月見草は
流れる星に 歌を詠み
十六夜の影を泳ぐ
秋桜を包む 風は
人々の心に愁いを刻み
揺れる すすきは 朝露に光る
八入の雨に 染められていく
山里のもみじに
玉響な 喜びを見て
大地の実りに命を繋ぐ
真冬の空に輝く星は
昔日の光に 今を照らし
山に降り積もる雪は
春待つ命を眠らせる
山に生きる すべてのものは
やがて訪れる 雪解けの時を
信じて待ち続ける
・・・
青空は やがて雲に隠れ
木の芽雨を降らせ
雨の冷たさに茶色な大地は目覚め
虹色に飾られた 原野は
更に青空を 際立たせる
山々に降る雨に
緑は冴えて
命は川をつたい
海が活気づく
海原を駆ける風は
空高く舞い上がり
水平線でステップを踏み 歓喜する
光は影にありがとうを伝え
影は光な華やかさを引き出す
汗はさわやかな涙を誘い
涙は汗の喜びに沈む
朝風に昇る太陽と
夕日に熔け行く太陽に
力強さと儚さを見て
自身の人生を重ねる
※雨夜の星とは:雨雲に覆われた夜でも雲の上には確かに星は在ることから「見えなくても確かに存在するものという意味」
雨夜の月とは:雨雲の上には月は出ているのかいないのかわからないことから「在るのか無いのかわからないものという意味」
八入(やしお)の雨とは:布や糸を染めるときに、一回染めることを一入(ひとしお)と言い、何度も染めることを八入ということから、「一雨ごとに木々の葉の色を濃く染めて行く雨のことを:八入の雨」という。
玉響(タマユラ)とは:玉がゆらぎ触れ合うことのかすかなところから、「しばし」「かすか」の意味に用いられる。また少しの間。ほんのしばらくという意味にも用いられる。
光の陰(ヒカリノカゲ)とは:光陰(コウイン)の訓読み。月日、時間、歳月という意味。
▽私は見えなくなってから、見えているころとは違った物事に心が向くようになりました。とにかく、何事につけ心が敏感になったことを自身でも感じています。
それに加え、若いころとは違う自分が、視覚障害者になったころから芽生えてきたことを感じてもいます。敏感になったと言いながら自家撞着しているようですが、いつも平らかな気持ちでいたいと強く感じます。
何が変わったの?と問われても、自身でもはっきりしませんが、見えている頃は一点を集中して見ていたように思えますが、今は全体を見ようとしているように思えます。
若いころにはいつも何かに腹を立て、国の政策にも物申すという姿勢が、良いことだと思ってきました。しかし、今では少し違ってきています。年を重ね、それなりに苦労もし、人の気持ちを多少なりとも推し量れるようになり、思うのは、反発心や正義感を振りかざすことよりも、思いやりの心で、助け合う姿勢こそが、幸せの基本だと感じられるようになりました。それが正しいか否かはわかりませんが…
ところで、今年も師走がすぐそこまで来ています。なんだか今年は、コロナ問題で慌ただしく過ぎてしまったように感じますが、いつものように、一年を振り返ってみたいと思っています。
次の詩は国リハで学んでいる頃、自らを戒め、自分自身の言動を反省して前進しようと思い、作ったものです。読んでみてください。
〈脚下照顧して新年を迎える〉
不自由ばかりを思えば苦しくなる
悲しさに浸っているうちは 一歩も前に進めない
相対的刹那的な喜びを求めれば
涙に胸を濡らすことになる
ありがとうのアンテナを立てて
自分で自分をライトアップして
笑顔で進めば 喜びな未来がそこにある
同じ時間を生きるなら
どちらを選ぶも自分次第
感謝して前を見て
想い出だけをポケットに仕舞い
いわれのない陰口など
馬耳東風と洒落込んで無視をする
・・・・
そこで 脚下照顧する
「他人にとやかく要求する前に
自分の足元をよく見て
反省すべきを反省しなさい
そして責任転嫁をやめなさい」
と自らに言い聞かせ
自らを説き伏せる
確かなのは
目に障害を持ったこと
ほとんど何も見えなくなったこと
そうして 自身にできることは
音を聞き分けられること
臭いを感じ取れること
塩辛いお漬物や
辛い唐辛子や苦瓜や
それから 酸っぱいミカンも
甘いケーキもチョコレートだって
たっぷり楽しむことができる
腕を伸ばし 触れられること
足で地面を蹴飛ばせること
風に心を遊ばせられること
多種多様な情報を
自身の頭で処理できること
こうして数え上げれば
できないことよりできることの方が多い
なんて素晴らしいことだろう
・・・・
目と引き換えに新しく得たものもある
同じ境遇の友達
鋭敏な感性
人の心身を構成する神秘さ
一人で歩くことの新鮮さ
町での一期一会
心と心の絆
暖かく微笑ましい親切
そして 少しだけの悪意
よくよく見ると
得たものひとつひとつが光を放つ
「自らの境遇を恨むより
すべてを受け入れ すべてに感謝しなさい」
と自分で自分に話しかけてみる
・・・・
今日は朝から小春日和になった
森も街も私の心も
大きな太陽が柔らかな日差しで包んでくれている
「一年ご苦労さまでした
新しい年もあなたを歓迎します」と言いたげに
優しく穏やかに
心にゆとりを届けてくれている
誰にも どこへも 等しく
愛情を注いでくれる
それが 宇宙の原理原則
その愛情に救われ
私は生きて行く勇気をもらっている
※脚下照顧(キャッカショウコ)とは:自らの行いを見つめ直し、反省すること。
▽私は、『苦労』という名のぬるま湯に浸っている頃には、苦労をしなければならない原因を、社会が悪いとか、あの人のせいだとか、とにかく責任転嫁ばかりで自分を顧みることを怠っていました。責任転嫁こそ自己中心の一部だとは思いもよらなかったのです。そして、責任転嫁をすると、不平や不満の思いが目隠しをし、耳に栓をしてしまうということには、全く気付きませんでした。
それだけではなく、責任を人に押し付け不平不満を持つと、一歩だに前進することはできなくなってしまうということを強く感じています。
そこで「まいっか!」と自分に言い聞かせ、不満を排除し、「ありがとう」の気持ちを口癖にしようと、努力しています。なかなかできませんけれどね。
そこで次に登場するのは『行雲流水』です。何事につけても執着心を捨て自然に身を任せ、自然の流れのままに身をゆだねて生きる気持ちを持ちたいと思っています。
それこそ、勝手なことを書きましたが、「未熟な奴だ」と笑い飛ばし、お許しください。
ありがとうございました。
石田眞人でした