第四号 貴方は知っていますか
皆さんは、白い杖を持って街を歩いている人を見かけたことはありませんか?
私はまだ、目に障害を持っていなかった頃、白い杖を持った人を見かけた記憶はほとんどありませんでした。それは、私自身の、障害に対する関心のなさから来たものの、何ものでもなかったと思います。
これは以前、実際に経験した本人から聞いた話ですが、ちょっぴり笑っちゃう話です。
その男性が、ある駅前の点字ブロックを、慎重に白杖を振り振り歩いていると、左側から歩いてくる下駄の音が聞こえてきたそうです。そして、次の瞬間、その下駄をはいた人が白杖に躓いたのです。その時に投げかけられた一言です。「危ないねぇ!そんな棒切れを振って歩いていたら!気をつけなさい」というものでした。それは、年配の女性の声に聞こえたそうです。
これは、めったにないことの一例ですが、白杖を持つことの意味すら知らなかったようですね。
それから、皆さんは、視覚障害のことをどれくらい理解していただいているでしょうか。視覚障害とひとことで言っても、視力が衰えていくだけではなく、視野が狭くなってしまう人もいます。私の場合は、その二つの複合的な障害です。視力が衰えて行くことを想像することは、比較的優しいことだと思いますが、視野が狭くなるという
ことを理解できますでしょうか。たとえて言うなら、トイレットペーパーの芯を目に当てて、そこからのぞくようにしか見えなくなってしまうのです。
これは、私が出会った人から聴いた話ですが、その方は、障子に針で穴をあけ、そこから覗くような見え方になってしまったと言っていました。そのために、文字は、小さければ小さいほど見やすく、少し大きめだと、文字の全体像を把握することは難しくなってしまったようです。人の顔は、最初に、目を見て鼻を見て口を見て、最後に顔の輪郭を見渡して、初めてそこにいる人が誰なのか認識していたようです。視力はまだ、1.5くらいは残っていたようですが、視野が狭くなるにつれ、生活も困難になって行ったと言っていました。
また、私が障害を持って気づいたことの一つは、白い杖の正確な呼び方を知っている人は意外に少ないということです。あなたはご存じでしたか?いつ頃知りましたか?「白い杖」と書いて「白杖(ハクジョウ)」といいます。どうぞ、心の片隅にでも留め置いてください。
今回の作品は、障害者も健常者も本質的には同じ人間だという思いから書いた詩です。
ちなみに、この二つの詩を書いた時には、国リハ(コクリハ:国立障害者リハビリテーションセンター)で、国試合格のために、寮に入り勉強をしていた頃のことでした。国リハの寮に住むには、基本的に生活全般何でも自分で行うことが求められていたのです。ですから、勇気を振り絞り、ひとりで駅前の八百屋さんや、花屋さん、それから、駅向こうのスーパーマーケットにもよく通いました。その時の経験です。
障害を持つ私の存在が、ささやかな教育の一助になれば幸いです。
〈視覚障害者まさとの街角レポート〉
その日はどんよりと曇っていた
微かに光を感じる私の目から見ると
まだ午後になったばかりなのにすでに日暮れが来たかと思うほどだ
『こんな日に出かけるのは嫌だな』と思ったのだが
洗濯洗剤とボックスティッシュがなくなってしまい
雨が降り出す前に行ってこようと
勇気を片手に握りしめ 街へ一歩踏み出した
もちろん白杖を振り振り歩いた
ゆっくりゆっくり歩を進めた
駅の階段がそこにあると思うと
少しだけ歩く速度が速くなった
そんな時 可愛い声が聞こえてきた
それは
「お母さん 白い杖を持った変なおじさんがいるよ」と言う女の子の声だった
耳をそちらに向けると
母娘が足早に立ち去るのを感じた
私は思った・・・・
『きっと障害者である私に気を使ってくれているに違いない
それはそれでありがたい しかし こんな時こそ良い教育のチャンスなのにな』と・・・
皆さんに知ってもらいたいことは
白杖を片手に街を独り歩きしている視覚障害者は
もうすでに見えないことへのこだわりを超越し
障害を受け入れている人がほとんどだということを
見えない自分
それが私なのです
こんな時 私が感じるのは
「白い杖を持っている人は目が悪い人なのよ」あるいは
「目に障害を持っている人なのよ」と言うひとことこそが
生きた教育になるのではないかということなのです
そのことを沢山の人たちに知ってもらいたいのです
▽これは、私自身がある駅で経験した話ですが、小学校の低学年らしき男の子に「おじさんは目が見えないの?」と、話しかけられたことがありました。その時には、簡単にですが、目に障害をもってしまったことを話してあげられました。
話は変わりますが、私が、初めて国リハのある街を、独り歩きした時には、迷子になってしまい、20分くらいで帰れる道のりが、1時間30分もかかってしまったのでし
た。道を通りかかった人に尋ねようと思うのですが、歩きの人は誰もいなく、自動車か自転車の人ばかりで、声をかけられずに時間ばかりが過ぎて行きました。時間が過ぎて行くにつれ、人に声をかける勇気も薄れて行くものですね。まさに「行きは良い良い帰りは恐い」でした。その日は確か、どんよりと曇っていたと記憶してイます。太陽が出ていれば、その光の強さから、東西南北が認識できたのですが、曇りでは無理なのでした。後で、迷子になったことを国リハの友に言うと「携帯に電話をくれれば向えに行ったのに」と言われたのですが、自分のいる現在地がわからないので、迎えに来てもらえるはずはなかったのです。
見えないということは、さっきまでの連続性が絶たれることで、今自分はどこにいるのかさえ分からなくなるのです。
次の作品は、中途失明者の私自身の心の中を、ほんの一部ですが、見てほしくて書きました。見えている経験もあり、見えなくなった経験もある私だからこその思いかもしれません。このころは、まだ障害を持ってしまったことへの、罪悪感や自分への嫌悪感が、少し残っていたようです。
国リハへ行ってから、ようやく独り歩きできるようになった頃の出来事をもとに書いた詩です。
「家政婦は見た」というドラマではありませんが、襖を少し開けて片目でそっと覗いて見てくださいね。ほんのちょっぴりですが、私の心の内を知っていただけたなら嬉しいです。
〈新所沢駅のある街〉
「エスカレーターは止まっています」
「となりの階段までご案内しますね」
と言う女性の声と同時に
私の左手に柔らかな手が触れた
その手の優しさと
穏やかな口調で
私の 緊張がほぐれた
初めて住む街
通い慣れていない駅
溢れる自転車
不安を増殖する騒音
じりじりと照りつける太陽
見ることができなくなった今
私にとっての街は
大きく口を広げ
噛付いてきそうな モンスターのようだ
すべての感覚を
一つの目的に向かって集中し
そこから得られた情報をもとに
安全性と方向性を定め歩く
まるで陸に上がった亀のように
スルリ スルリと
ゆっくり前を向き
白杖を使う手もぎこちなく
初めての街を行く
自分の住む部屋から一歩でも
外に踏み出すには
親友とけんかをした翌朝
「ごめんね」と進んで許しを乞う
それほどの 勇気を要する
あるいは
ライオンの群れの中へ飛び込み
そのまま走り抜ける
度胸と一瞬の決断に似た
根性を持たなければならない
したがって
「えいやあ」という勢いが必要なのだ
私は 柔らかな手を持つ女性に引かれ
階段に向かった
こんな時には
二つの心が私を襲う
人の真心に出会い
胸が熱くなり
眼がしらにひとすじの涙が溢れ
優しさに満たされる心
その反対に
こんなことすら一人でできないのか
と自身を責める心は
自分で自分が情けなくなるばかりで
大きな体が丸くなり
ダンゴムシのように
自己嫌悪の塊になる
目に障害を持ってから
何かにつけて
心が鋭敏になった
悔しい思い
喜ぶ心
悲痛な気持ち
理不尽さに対する怒り
人々の心の動き
心眼で感じる真実
それらはまるで
むき出しになった火傷の跡のように
激しく心に沁みてくる
私は一人階段を上る
左手は手すりをしっかり握りしめ
右手に持った白杖で
一段一段 階段の端を叩き
その位置を確認しながら
踏み外し転げ落ちることのないように
確かな足取りで登る
一歩登ると
左目からは悔し涙がにじみ
二歩登ると
右目からは嬉し涙が光
踏み出したGパンにこぼれ落ちる
八月の晴れた日の午後
全身が汗みどろになりながら
心はふありふありと浮いている
時折吹く清風に
街をひとり歩く不安と喜びを感じながら
八月の光に熔けていく
悔しさと喜びに包まれた
晴れた日のあの日の午後
▽国リハ生活の頃には、街での出会いも稀にありました。その一人が、通いなれた八百屋のお兄さんです。私が行くと「髪の毛をさっぱりと切っちゃったね」とか「今日は新しい靴を履いてきたのだね」とか「旦那さんは食通だね」と、優しく声をかけてくれました。
あれから今年で六年も七年もたち、思い返せばもう障害者手帳をもらってから十年たちました。十年が長いのか、短いのかわかりませんが、障害を持って必死に生きてきた私にとってはあっという間でもあり、ようやくここまで来たかという思いもあります。十年を振り返ってみると、障害を持ったことへの羞恥心は完全に払しょくされました。
ただ、見えないことへの恐怖感はまだまだぬぐい切れません。
白杖を持ち始めた頃には、昔からお付き合いしている知人の前に出ることが、恥ずかしくてたまりませんでした。今では、そんな気持ちもすっかり無くなりました。
それにしても、これから春秋を重ねるにつれ、自分の気持ちや考え方が、どんな風に変わって行くのか楽しみです。
ここだけの話ですが、国リハ二年生の時に、東京マラソンに参加しました。10kmの部ですけれどね!そんな、他愛のない経験ひとつひとつが、心の支えになっています。
石田眞人でした