この話は十年以上も前のことですが、あるテレビ番組の中で、明石家さんまさんが自らの性格をこんな風に言っていました。
『鳴かぬなら 俺が泣こうほととぎす』
私はこれを聞いてほとほと感心しました。こんなに冷静に自分のことを分析しているのか、と思ったのです。
それから、私がまだ見えている頃のことでした。車を運転中にラジオの番組の中で、松下幸之助さんの言葉を紹介していました。
『鳴かぬなら それもまた良しほととぎす』というものでした。
このころは、自己嫌悪の中で人生に悩みまるで悲劇の王子様のように落ち込み、苦しみ悩んで自分の存在を消してしまいたかったころだったので、思わず涙が出てしまいました。その時は、まだこのころ以上の苦しさを味わうなどと、思ってもいなかったのです。
その後、失明してしまうのですが、明石家さんまさんの言葉と松下幸之助さんの言葉を引用させてもらい、自分自身の心の動きを詩にしてみました。
失明した当初は、死にたくて死にたくて心はかたくなになっていたのですが、障害者手帳をもらってから、少しずつほんの少しずつ心の中が動きだしました。
今まで、障害者である自分を受け入れられずにいたのが、徐々にそんな自分自身と、向き合えるようになっていったのでした。それは、障害者手帳をもらったことがきっかけで目を失くしてしまった私でも、最後まで生きて行けそうに想い始めたからでした。
そんな詩です。どうぞ読んでください。

〈見えなくったって私は私〉

「鳴かぬなら俺が鳴こう ほととぎす」
鳴かないほととぎすは ほととぎすではない・・・
と思いますか?
「鳴かぬなら殺してしまえ ほととぎす」
ほととぎすは鳴くもの・・・
と思いますか?
四十をだいぶ過ぎてから 視力を失いました
苦しみました
これからどうして生きて行こうかと
悩みました
一人では何もできないと
嘆きました
見えなくなってしまい
もはやこれは私ではないと
泣き濡れました

「鳴かぬなら鳴かせて見せよう ほととぎす」
今の医療技術をもってすれば
治らないはずはないと
いくつかの病院を 走り回りました
光の無い恐怖に 胸がぐいぐい締め付けられ
一気に廿歳取りました
そして 治らないことを知りました

「鳴かぬなら鳴くまで待とう ほととぎす」
それでも見えるように なるのではないかと
とどきそうでとどかない虹に
すがろうとしました
見えるようになった夢を
何度も見ました・・・・
しばらくしてから
現実と向き合う努力をしようと
思い始まったのでした

「鳴かぬなら それもまた良し ほととぎす」
ある日ある時 ようやく気付きました
見えなくたって私は私じゃないか
何も変わっていないじゃないか
視力に障害を持ったのは
誰のせいでもない
私の責任なのだ
もう一度人生をやり直したい
そう決意した時から
眼前に 新しい道が見えてきました
細くて 紆余曲折して
それは まるで迷路でした
しかし 光に満ちていました
夢が溢れだしました
それから 人生が一変しました
今日も 多くの人たちの
真心に助けられ 歩いています
明日からも歩き続けるでしょう
鳴かなくったってほととぎすはほととぎす
見えなくったって私は私なのです

▽私は前向きな気持ちになれるまでに、そこそこ長い時を費やしました。
そのきっかけは、前にも述べたように障害者手帳をもらったことですが、この手帳をもらうのも数か月拒み続けました。クリニックに行くたびに内科の先生に「障害者手帳をもらうように」と勧められたのを、二回断ると、三回目に先生がこんなことを言うのです。
「障害者手帳をもらうと良いことがあるよ」と、です。
それで、半分は自棄のやんぱちで、ようやくもらうだけもらっておこうと、決意した次第でした。
ところがです。自分自身あんなに障害者になったことを受け入れられずにいたのに、その手帳をもらったことで、ようやく障害を持ったことを受け入れ始めました。それだけではなく、大好きな読書も諦めなくてもよいことを、知らされました。
それに何よりも、もう一度社会復帰するための訓練を受けられる施設に通うことができることを知り、真っ暗闇だった心に一条の光が差しました。それから自立訓練をするために入ったある施設のある人との出会いが、私の人生の大きな転機になりました。
その後、国リハに入ってすぐに、そんな私の心の動きを詩にしてみました。
どうぞ読んでください。

〈闇に迷って〉

そのころは涙におぼれていました
なんど 同じ夢に驚いたことでしょう
見えるものは何もありませんでした
感じる心すらなくしました
聞こえてくるのは ただ
遠くの高速道路を駆け抜けていく
大型トラックの悲鳴だけです
瞼を そっと開いても
ぎゅっと 目を閉じても
広がるのは 闇の世界です

こんな目は くり抜いて捨ててしまおう
いや いっそのこと千枚通しで刺しぬいてしまおうか
それよりも 出刃包丁で心臓をひと思いに 突き刺して
胸を真っ赤な血で染めてしまおう

誰が悪いのでもない
すべての責任は自分にある
今度こそ 人生をあきらめよう
生は放棄しなければならないと自分に言い聞かせました
五感の中でも 8割を占める
視覚を失ったのだから
一人では文字を読むことも
自分の名前を書くことも
お金を数えることすらできません

お膳に並んだ夕食
音しか聞こえないテレビ
愛する人の顔
昨日まで見えていたものが
暗闇に消えて 自身の力では
沢庵ひとつ 箸でつかむこともできず
哀哀たる日々を過ごすばかりです
毎日歩いた道のはずなのに
恐怖のあまり一歩も踏み出せない
そんな 情けない自分が そこにいます

今夜も同じ夢を見ました
窓からは 長くなった日差しが部屋に伸び
ぽかぽか陽気の 秋の終わりの昼下がりに
ふと窓を開け 遠くの山々に目をやれば
赤く染まった山や雲は
蒼穹に熔けて
私の目は
眩く光る秋の日に瞳が泳いでいます

その刹那 私の心が 止まりました
「なぜ 眼前に広がる風景が見えるのだろう」
「ちょっと待てよ 以前にもこんな夢を見たな」
「そうか これは夢だ 夢に違いない」
そう呟いて
ドック ドックとなる胸を両手で押さえ
ゆっくりと起きあがり 夢で見た窓を開け
重い瞼を恐る恐る 開いてみた
「おや 確かに見える」
時は静かに過ぎ
茜色に染まった雲が見える
山へ帰っていく鳥も見える
秋の色を漂わせて
乾いた田んぼが見える
夢ではない 現実だ
なぜ見えるように なったのかは解らない
「見えるようになったのだ」
「おーい 俺は見えるようになったぞ」
そう叫んだ途端
夢の中の夢が 覚め
今度こそ真実の世界が待っていました
そこには夜の闇だけではない
光を失った
現実の 闇があったのです
こんな夢を何度見たことでしょう
ひとつの出会いがあるまでは

私を大きく変えてくれたのは
塩原視力障害センターの存在でした
中でも 私を担当してくれた
ケースワーカーとの出会いでした
「もう一度人生をやり直せるぞ」
「生きることもあきらめなくていいんだ」
それは 正に阿鼻地獄にたれてきた 蜘蛛の糸のようでした
私は 必死につかまり
お日さまを目指して上りだしたのです

今は 国立障害者リハビリテーションセンターで
青春真っ只中です
これこそ 第二の人生の出発です
人生を放棄しなくてよかった
これからも 沢山の人達の力をかりながら歩いて行きます
ひとつの出会いに感謝をしながら

▽残念ながら、塩原視力障害センターは数年前に閉鎖しました。
国立障害者リハビリテーションセンター(国リハ:コクリハ)は、現在も所沢市にあります。近くには、防衛医大や航空公園があり、視覚障害者だけではなく、肢体障害者・言語聴覚障害者・高次脳機能障害者などの人たちが自立するために訓練を受けています。
私は、国リハで、楽しい出会いやあまり嬉しくない出会いなど、沢山の出会いがありました。そんなことも含めて国リハのことは次回詳しくお話しさせていただきます。
塩原センターや国リハのことは、言葉を尽くしても語り足りませんが、私の感謝の気持ちを感じ取っていただけることと思います。
ありがとうございました。

石田眞人でした